風の吹く場所


      もう少しなんだ。
      あと、一歩。
      あと一歩で、たどり着けるのに……。



      「…………っ?!」
      目を開けると、抜けるような青空が見えた。
      一筆描かれた白い雲は、上空の風にあおられて流されていく。
      慌てて、体を起こした。
      急激に起きあがったせいかくらくらとめまいがする。
      おそらくそれだけでは無いであろう頭の痛みに顔をしかめつつ、剣士の青年は辺りを見回した。
      「なんだ、生きてやがった」
      右手から残念そうな声がかかる。
      そちらを見やると、シーフ姿の青年が面白くもなさそうに視線を送っていた。
      くすんだ金色の髪を風に遊ばせている。
      彼はすたすたと剣士の方へ歩いてきて、横に座り込む。
      「……治療が失敗だったら難癖つけてあの女と縁切ろうと思ってたのによ。
       ついでに装備品売り払って俺様小リッチ?の予定が」
      ぶつぶつと呟くシーフの様子をぼんやりと眺めていた剣士は、
      ひときわ大きく吹いてきた風によって我に返った。
      「あの、きみが助けてくれたの? どうもありがとうございます」
      ぺこりと頭を下げると、白に近い銀の髪がふわりと揺れた。
      虚空に向かって愚痴を呟き続けていたシーフはその言葉にじっと剣士の顔を見つめた。
      それからおもむろに、片手を差し出す。
      「$」
      「えっ?」
      「礼っつったら金だろ、カネ。さっさと出せ」
      「は、はあ…」
      相手の物言いはずいぶん強引ではあるが、剣士としてもお礼もしないというのは気が引けるので
      あまり逆らわずに道具袋をあさる。
      ――が。
      さあっと剣士の顔から血の気が引いた。
      元々彼は狩りをしていて、赤ポが尽きようとしていたので町に戻ろうとしていたのだ。
      貧乏生活の中、この間防具を買ってしまったので金は残っていない。
      わずかに残っていた分も、回復アイテムへと姿を変えていた。
      にんじんは昨日の内に全部かじってしまったし、
      りんごは空腹で死にそうだったアーチャーにあげてしまった。
      彼の道具袋の中にはどこをどうひっくり返しても、換金用の収集品しか残っていなかった。
      「悪いんだけど、現金の持ち合わせがなくて…収集品じゃだめですか?」
      「んだよ、レアものか?」
      シーフの言葉に力無く首を横に振り、道具袋の中に視線を落としつつ品物名を列挙する。
      「かえるの卵とか、きのこの胞子とか…蝶の鱗粉なんかもあります」
      シーフは勢いよくコケた。
      「……何っだその気持ち悪いラインナップは! どれも道具袋が汚れたりするもんばっかじゃねえか!
       そんなもんさっさと売っちまえ!」
      ちなみに剣士はばらけやすい品物は個別の袋に入れて持ち歩いているので、
      にんじんにきのこの胞子がついていたり道具袋がかえるの卵に汚染されたこともない。
      「売ろうと町に帰る途中だったんで。あ、じゃあ、ちょっと町まで行ってお金に換えてきますよ」
      立ち上がりかけた剣士の肩をひっつかんで座り直させる。
      「却下」
      「え、でも」
      「お前そのまま逃走するつもりだろ。んなことさせてたまっか」
      「逃げませんって」
      「いーや逃げる。それが人間の本能だ」
      「本能を押さえて行動するのが人間でしょう」
      「人間はずるがしこいもんだからな」
      「……自分だったら逃げると思ってるでしょ」
      「ぎく」
      さくっと図星を指され動揺が表に出てしまう、まだまだ修行が足りないシーフであった。
      「人に世話になっておいてお礼もなしというわけにはいきませんよ」
      だから待ってて下さいってばと立ち上がると、服の裾を捕まれた。
      「んな時間ねーんだよ、早くしないと…」
      「あら、起きたのね」
      澄んだ女性の声がして、声の主はそのあとに現れた。
      アコライトであることを示す修道服を身につけてはいたものの、
      すでにプリースト並みの風格を備えているように見える。
      束ねていない薄紫の長い髪は風にあおられていた。
      「水、くんできたのだけど。飲む?」
      手にした空き瓶にはきれいな水が詰まっていた。
      「清めてあるから安心して。お代は不要よ」
      ということはこれは聖水か、と軽く会釈しつつ受け取りながら剣士は思った。
      ずいぶん贅沢な飲み水である。
      目覚めたばかりの喉に、水は甘く冷たかった。
      「おいしいです、ありがとうございます」
      「水ぐらいでそんなにかしこまらなくても…」
      くすくすと楽しそうに笑う。
      だが、その目が一瞬きらりと光った。
      アコライト登場からずっと黙っていたシーフが、密かに立ち上がり姿隠しの技を使ったのだ。
      「ハイディング!」
      タイミングも距離もばっちりだった。今度こそ逃げ切れる!
      そう思ったとたん、幻想を打ち砕く涼やかな声が響いた。
      「ルアフ!」
      まやかしを打ち消す明かりがシーフの周りを包み、彼の姿を白日の下にさらけだした。
      「……どこに行こうとしているの?」
      お前のいない何処かだよ、と心の中で絶叫していようとも、口に出すことは許されない。
      「いいかげんに気づいて欲しいわね、無駄だということに」
      ため息混じりに言い放つアコライトの目からは先ほどの聖職者ぜんとした色は消えていた。
      かわりに、どこまでも冷徹な光を宿している。
      「あ、あの……」
      しかし事態がさっぱり飲み込めていない剣士がおずおずと声をかけると、その色すら消えた。
      「はい、なにかしら?」
      くるっと振り返った彼女は実に楽しそうな表情を浮かべていた。
      まるで、おもちゃが目の前にある子供のような。
      態度どころか口調まで大幅に変わっている。
      「彼、何をしたんでしょうか?」
      術を解かれた状態のまま硬直しているシーフを目で示すと、彼女はうんうんと頷いた。
      地面に腰を下ろすと、剣士にも座るようにと指示をする。
      「聞いてくれる? そこのシーフはね、大聖堂に忍び込んで食い逃げしようとしたの」
      「食い逃げ?!」
      なんとなく食い逃げという表現が間違っているような気がしなくもないが、そこは流すことにした。
      それよりもその事実が驚愕的だったのだ。
      「今のご時世、冒険家としての盗賊が認められるようになってるからね。
       家に忍び込むようなタイプって少ないし。
       大体素直に頼めば司祭様だってお許しになったのに、こそこそ忍び込むから」
      「……この俺様が物乞いなんざできるか」
      そっぽを向いて座り込んだままぼそぼそと呟く。むろん、小さな声でだったが。
      「それで私が、この私が、不幸にもこいつのお目付役になっちゃったのよ」
      「お目付役?」
      首をかしげる剣士に頷き、説明を続ける。
      「更生するまで面倒を見てやりなさいって司祭様に命じられたのよ。
       そのおかげで私の夢がかなうのが遅くなっちゃう」
      「夢、ですか」
      大分はじめと印象が変わってきてはいるが、修行中の修道士である。
      おそらくプリーストになって、万人のために尽くしたいのだろうと漠然と考えた。
      「そう。早くプリーストになって……」
      うっとりと宙を見ながら予想通りの答えを返してくれるかと思った矢先だった。
      「可愛い女の子を集めてハーレムをつくるのよ」
      「…………え?」
      「ハーレムは全人類の夢よね。可愛い男の子でもいいんだけど、大きくなったら台無しだしね。
       そう思うでしょう?」
      返事に困っていた剣士は、そう問われてさらに戸惑った。
      いや、そんなこといわれても。
      後方では『また始まりやがったか』とシーフがむこうを向いて毒づいている。
      「そう思わない?」
      重ねて問われ(笑顔付き)、とりあえず無難な答えを選択した。
      「ゆ、夢を持つのはいいことだと思いますよ、がんばってください」
      「あら、応援してくれるの? ありがと。優しいのね、ハーレムに入ってもらおうかしら」
      「え、遠慮しときます」
      さっき男はいらないといってませんでしたかと言いたいところをこらえて、再び無難な答えを返す。
      シーフは巻き添えを食いたくないのか遠い目で他人の振りをしている。
      「ところで剣士クン、なんであんなとこでハチに囲まれてたわけ?」
      「あ」
      そういえば事情も説明していなかったということに気がついた。
      「えーっと、回復アイテムも尽きてきたんで町に帰ろうと思ってたんですが。
       通りすがりにノービスの女の子がハチの大群に囲まれてたんで…ちょっとほっとけなくて」
      そう言って照れ隠しに軽く笑う。
      「何匹ぐらいたむろしてたの?」
      「10匹までは数えてたんですけど、あとは覚えてないです」
      「大群もあったものね。私が15匹ぐらい倒したから」
      「え? 彼が助けてくれたんじゃないんですか?」
      彼女の言葉にきょとんと目を丸くする。
      彼、といってシーフの方を見ると、ぎくりと硬直したのが見えた。
      「へえ、アイツが、自分で助けたって言ったの?」
      目の奥が異様に静かだった。
      「いや、僕が勝手に思ってただけなんですけど。違う…みたいですね」
      「もしかして、お金取られたりしなかった?」
      彼女が剣士に質問するたび、シーフの顔色が悪くなってきている。
      そんな彼の様子を視界に入れながら剣士は答えた。
      「いえ、お礼を渡そうと思ってたんですけど、結局渡せなくて」
      彼女はゆっくりと目を閉じた。
      シーフの顔色が蒼白を通り越して土気色になってきているのを見た剣士は、いささか慌てて先手を打った。
      「改めてお礼を言います。本当にありがとうございました。ヒールもかけてくださったんですよね?」
      すっと目を開けて剣士を見つめる。
      「他の方がかけてくれたのより効きがいいみたいです。きっと素敵なプリーストになりますよ。
       僕が保証します。…あ、僕なんかが保証しても意味ないですかね?」
      頭に手をやりながら、彼は柔らかく微笑んだ。
      そんな剣士を見ている内に、彼女の気持ちも落ち着いてきたようだ。
      「そんなことないわよ、嬉しいわ」
      彼女も微笑んではいたが、シーフは彼女の手が置かれていた地面の土がえぐり取られているのに気づいていた。
      それでも手には泥一つついていないあたり、ちょっと人間離れしている。
      「お礼したいんですが、持ち合わせがなくて。町まで行ってお金に換えてこようと思うんですけど」
      「気をつかわなくてもいいのに」
      「いいえ、助けてもらって何もしないのは悪いです。というか、僕がお礼をしたいんですよ」
      「そう」
      アコライトはしばし考えるそぶりを見せていたかと思うと、やおらぽんと手を打った。
      「じゃあ、私が町に行って収集品をお金に換えてきてあげるわ。その3割を私にちょうだい」
      「えっ、そんな、よけいに悪いですよ。手間かけさせちゃうじゃないですか」
      「いいのよ。普通より高く売れるトコ知ってるの。そのかわり、ここでアイツ見ていてくれない?」
      ぴっ、とシーフを指さす。
      「彼を?」
      「そう。たまには子守りから離れてのんびりしたいのよねー」
      シーフは何が子守りだ、と言いたげな視線を彼女に向けたが、下手なことは言わないようにしたらしい。
      賢明な判断である。
      「じゃあ、預からせてもらっていいかしら?」
      彼女は剣士に向かって手を差し出した。
      剣士はちょっとためらったが、結局言うとおりにすることにしたようで、おとなしく道具袋を渡した。
      「大丈夫ですか? 結構重いと思いますけど」
      「全然平気よ。私、アイツより腕力あるから」
      「え」
      思わずシーフと彼女を見比べてしまう。
      見た目は完全に修道士であるのだが。
      「二時間ぐらいで戻ってくるから」
      ごゆっくり、とにっこり笑って彼女は町まで歩いていった。


      「……一応、礼は言っとく」
      「何の話?」
      彼女が見えなくなってからしばらくして、目を合わさずにシーフが切り出した。
      「あー、あの女ごまかしてくれただろーが」
      「そんなこともしたような気はしますが」
      「ボケてんのか」
      「そのあとの会話のインパクトが強かったんで」
      シーフは盛大にため息をついた。
      「あのアコライトさん、強いんでしょう?」
      「バカみてーにな。じきプリになるんじゃねーのか。てかお前、さっきから何で俺に丁寧語なんだ」
      「年上でしょ?」
      「お前いくつだよ」
      「17」
      げ、とシーフは実に嫌そうな顔をした。
      「同い年かよ…」
      こんなぼけた奴と、という言葉は胸にしまっておいたが。
      「あれ、そうだったのか。てっきり年上だと思ってました」
      「とりあえず丁寧語止めろ。好きじゃねえ」
      「うーん…。止めるから、逃げ出さないで欲しい」
      「あ?」
      その言葉に、ひょいと剣士の顔を見た。
      「たぶんきみが逃げ出したら僕のせいになるから」
      シーフは一瞬非道く不機嫌な顔をしたあと、ごろりと寝っ転がった。
      ひときわ強く吹いた風が草を揺らした。
      剣士が戯れにちぎった草が風に乗って流されていく。
      「ねえ、聞いてもいいかな」
      ゆったりとした沈黙を破ったのは剣士だった。
      「何だよ」
      シーフは面倒くさそうに答えながらも、ちらりと剣士の顔を見た。
      「何で食い逃げなんてしたのさ」
      「……嫌なこと聞くな、お前」
      「だって、きょうび食べ物が足りない訳じゃないし、金さえあれば買えるだろ」
      「…………た」
      「え?」
      心持ち視線を外しながら彼が言った言葉が聞き取れず、剣士は彼の顔をのぞき込んだ。
      「金がなかったんだよ!」
      さすがに恥ずかしかったらしく、頬のあたりが少し赤くなっている。
      「……ああ、なるほど。なんか、シーフってお金持ちな印象があったんだよね」
      だから思いつかなかったのか、と一人納得している剣士に背を向けて、シーフはふて寝することにした。
      「あれ、寝るの?」
      気配から剣士が自分を見ていることはわかったが、相手をする気が起きずに無視した。
      やがて諦めたらしく軽いため息が聞こえ、気配が少し離れていった。


      「…………さま。退屈だったでしょう?」
      「いえいえ、のんびりするのも好きですから」
      背中越しに話し声が聞こえて、シーフは目を覚ました。
      当てつけに寝たふりをしただけなのだが、本当に寝入ってしまったようだ。
      二人分声が聞こえるから、アコライトが戻ってきたのだろうと推測をつける。
      「それで、これが代金ね。私の分はもう抜いてあるわ」
      「って、こんなに!? 何かの間違いじゃあ……」
      「ああいう収集品が大好きな奴がいてね、そいつに売ってきたの」
      「でも、あ、じゃあ半分差し上げます」
      「いいって言ってるでしょ? 私の分はもうとってあるの。これは貴方のものよ。それに……」
      らしくもなく彼女が声を落としたので、シーフはその先を聞き逃した。
      尤も剣士にも聞き取れなかったようで聞き返していたが、うまくごまかされている。
      (……いかにも世間知らずのバカって感じだな。あんなんでこの先やっていけんのかよ)
      剣士の行く末をぼんやり心配してしまったシーフは、慌てて首を横に振った。
      (なんでこの俺様があんな奴の心配なんかしてんだ!?)
      「あ、起きたの?」
      頭の上からかけられた声に反射的に振り向くと、目の前に剣士の顔があった。
      「っ!? お、驚かすんじゃねーよ!」
      「何か驚かせるようなことした?」
      剣士がいぶかしがっている間に、シーフは立ち上がっていた。
      視界に入ってくる、笑いをかみ殺しているアコライトの顔を見るのが非道く不愉快だった。
      「じゃあ、僕はそろそろ」
      「ええ、気をつけてね」
      軽くなった袋を持ち上げて、剣士がにこやかに挨拶をする。
      アコライトもそれに応え、常日頃見ることはない柔らかな笑顔で返答した後、鋭い目でシーフを睨んだ。
      その視線の意味を察知して、絞り出すように彼は言った。
      「……死ぬなよ」
      剣士はにっこり笑って頷くと、二人に手を振って草原の向こうへと消えていった。
      シーフがらしくもなくそちらの方を眺めている光景に
      アコライトは笑っていく顔を押さえることができなかった。
      「さあ、一気にレベル上げいくわよ」
      「お前の狩り場じゃ俺はやべーんだよ!」
      いつもの通りわめき出すシーフの二の腕をひっつかんで、彼女は歩き出した。
      そう、輝ける明日のために。






      続く  2へ


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