帰巣 partU


      雨が降っている。
      自らの身を雨にさらしながら、剣士は暗い平野を走っていた。
      所々闇の濃くなっている場所には木が生えている。
      ばしゃばしゃ、と人気のない空間に剣士の足音が響く。
      すでにその顔には疲労の色が濃い。
      彼は手頃な木を見かけ、思わずその下に飛び込んでいた。
      ここ一帯でも目立つ大木の幹に寄りかかりながら、彼は胸にたまった息をついた。
      顎にしたたり落ちてくる雫を軽く拭う。
      どうしてこんな事になったのだろう、と自問しても、答えは出てこなかった。
      結局の所、いつもの気まぐれなのだから。



      「ねえ」
      夕食を取り終えて、宿に帰る道でのことだった。
      この時はまだ、空は晴れていたのを覚えている。
      隣を歩いていたアコライトが急に立ち止まったので、二、三歩前に進んだ後剣士も立ち止まる。
      「帰巣本能って知ってる?」
      いたずらっぽい笑みを浮かべながらの唐突な問いに剣士は面食らったが、
      頭の隅から知識を引っ張り出してくる。
      「……確か、動物が自分の家に帰ってくることでしたっけ」
      「そうそう、よく知ってたね」
      ほめられれば悪い気はしないのか、照れ隠しに軽く頭をかく。
      「で、それがどうかしました?」
      「うん。一度、試してみたいと思ってたんだ」
      剣士はその言葉の意味に気が付かなかった。
      そして、彼の手にいつのまにか握られていた青い魔力の媒介にも。
      「なるべく早く帰ってくるんだよ」
      最後にまたもにっこり笑って、彼は神に祈りを捧げた。
      「ワープポータル」
      相も変わらず落ち着いた声がその呪を囁いたとたん、剣士の足下に光の輪が出現した。
      「な……!」
      剣士にできたのはせいぜい小さな声を上げる程度のことで、発動した呪文から逃れることはできない。
      彼がその場から消える直前、最後に見たのは手を振っているアコライトの姿だった。



      その場面を思い出してしまって、剣士は頭を垂れた。
      あの後、何処ともしれぬ場所に彼は出現した。
      道を訪ねようにもすでに人の姿はなく、見覚えがある土地かすら夜の闇に紛れて定かではない。
      とりあえず適当に方向を決めて走っていたのだった。
      これは彼の言う『帰巣本能』なんだろうかと考えかけ、その考えを打ち消すように頭を横に振る。
      そんなものが人間に備わっているわけが……あってほしくはない。
      せめて雨さえ降っていなければ、と彼は空を見上げた。
      走り始めてすぐに降り始めた雨は収まることを知らず、むしろ雨足が激しくなってきたともいえる。
      まさか雨まで降ることは彼も予測していなかったと思いたい。
      この大陸では雨はさしたる予兆もなく突然降り出す。
      はあ、と頭を木の幹に預ける。
      このまま雨宿りといきたかったが、頭の中に彼の台詞がリフレインしてくる。
      『なるべく早く帰ってくるんだよ』
      彼のことだから、きちんと時間まで計って待っているに違いない。
      最悪、彼の気に入らない結果を出したらもう一回チャレンジと言うこともあり得る。
      行かなければならないと幹から離れかけた時、生き物が身じろぐ気配がした。
      不思議に思い、木の向こう側を覗いて見る。
      剣士は目を丸くした。
      一匹の、デザートウルフの子がうずくまっていた。
      茶色の毛皮が雨に濡れてぺったりとはりつき、寒そうにふるえている。
      よく見れば怪我をしているようで、右後ろ足に赤いものがにじんでいる。
      疲れたように目を伏せていたが、剣士に気が付いてか目を開ける。
      そのとたんに歯をむき出し、低くうなり始めた。
      剣士は一瞬躊躇したが、放ってはおけずにしゃがみこみ、手を差し出した。
      がっと指に食いつかれる。
      革の手袋に穴を開けて、指にまで牙が食い込んできた。
      「……っ」
      痛みに耐えて、そっと逆の手でデザートウルフの体に触れる。
      恐怖からかさらに牙にかかる力が強まるが、剣士は引かなかった。
      ゆっくりと濡れた毛皮を撫でていく。
      「大丈夫、大丈夫だから」
      柔らかい声で言い聞かせながら、手は止めない。
      やがてデザートウルフの緊張が解けて牙をゆるめた頃には、彼の手袋は血まみれになっていた。
      自分の傷口を確認するよりも先にデザートウルフの傷口に目を落とす。
      冒険者によって作られた切り傷や打撲ではなく、仲間の牙によってできた傷だということは想像がつく。
      肉が見えていて、痛々しい。
      清潔な布に赤ポーションを染み渡らせ、傷口をふき取ってやる。
      ぴくりとデザートウルフの体が震えたが抵抗する元気もないらしくそのままでいる。
      残りのポーションを慎重に傷口にかけ、赤いハーブを取り出す。
      布を細く切り裂き、赤いハーブを巻き付けて足を縛る。
      応急処置に過ぎないが、野生の回復力があればなんとかなるだろうと見当をつける。
      問題はデザートウルフの体力だった。
      体が小さく雨にうたれたこともあり、体力があまり残っているとも言えないだろう。
      どうするか、と彼は考える。
      その時、ぺろとデザートウルフが彼の手袋をなめた。
      剣士はすっかり忘れていたが、先程噛まれたばかりだった。
      むりやり引っ張ると傷口に障るため、留め金をゆるめて手袋を外す。
      手袋ごしだったためさほど深くもないが、出血がひどかった。
      残っている布で止血をし、瓶の底に残った赤ポーションを傷口にかける。
      ひらひらと手の調子を見ていると、デザートウルフが再び手をなめてきた。
      「止めておきな、しょっぱいよ」
      とりあえず荷物を漁ると、ミルクが出てきた。
      コップに注いで目の前に差し出してやる。
      仲間がいるのならこんな事はしない方が良いが、怪我をした子供がこんな所にいると言うことは、
      恐らく仲間から見捨てられたのだろう。
      だいたいがデザートウルフはその名の通り砂漠に住む狼なのだ。
      デザートウルフの子は、特に警戒もせずミルクを飲みだした。
      このまま置いていってしまっては、冒険者に倒されるか魔物に食われるかするだろう。
      「ね、一緒に来ない?」
      言葉が分かったようにコップからひょいと顔を上げ、こっちを見る。
      同意するようにキャンと一声鳴いてから、再びミルクを飲み出す。
      まずいというのはわかってはいたが、剣士にこの子を置いていくことはどうしてもできなかったのだ。


      「……うん、事情は分かった」
      アコライトはタオルを小脇に抱えたまま、困ったような顔になった。
      「でもねえ……」
      ふうとため息を吐く。
      少しばかり視線を下に動かすと、二対の瞳がこちらを見つめている。
      きらきらという効果音が似合いそうな、思わず同情を誘う目で見上げてきているのは剣士と、
      その腕に抱きかかえられたデザートウルフの子だった。
      アコライトは諦めたように天井を仰いだ。
      「……とりあえず、体ふいてなさい。ちょっと出かけてくるから」
      ぽふ、とタオルを剣士の頭にのせてやって、アコライトはドアから出て行った。
      残された剣士はデザートウルフと顔を見合わせる。
      「……怒らせちゃったかな」
      悲しそうな表情になるが、デザートウルフは自分の足をなめるばかりで反応しなかった。


      「ただいま」
      「お帰り、なさい」
      怒らせたかと少し怯えている剣士はまだ着替えていなかった。
      「着替えてないの?」
      「えと、この子の体ふくのに精一杯で」
      髪は拭きました、とまだ水分を多量に含んでいそうな頭で言う。
      デザートウルフは気持ちよさそうに剣士の腕の中にいた。
      その光景を見てアコライトが軽く息をつく。
      「はい」
      そして剣士の目の前に白い棒状のものを差し出した。
      それを見て、デザートウルフが興奮しだす。
      「えっ……」
      「一応、一度卵に戻した方が良いから。ちゃんと世話はできるね?」
      剣士の返事を待たずに、デザートウルフに白く乾いた骨を食べさせる。
      瞬く間にかじったデザートウルフは、一瞬まばゆい光を放った後卵に姿を変えた。
      魔物は一度卵に戻ることによって人間への攻撃性を失い、町中でも連れ歩けるようになるのだ。
      未だ呆然としている剣士の腕から卵を取り上げ、タオルにくるんでテーブルの上に置く。
      「孵化器は売ってなかったから、明日買おう……っ?」
      感極まったのか、勢いよく剣士がアコライトに抱きついた。
      「ありがとうございます!」
      ぎゅっと力を込められて、アコライトの理性がかき消えた。
      冷たい腕に触り、ぼそりと呟く。
      「ああ、もういいや」
      「え?」
      「風邪引いたら、ちゃんと看病してあげるから」
       彼がアコライトの言葉の意味を考える間もなく、彼の濡れた上着が静かに床に落ちた。



      End.



      アコさんお金持ちですね……。



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