帰巣
雨が降っている。
自らの身を雨にさらしながら、剣士は暗い平野を走っていた。
所々闇の濃くなっている場所には木が生えている。
ばしゃばしゃ、と人気のない空間に剣士の足音が響く。
すでにその顔には疲労の色が濃い。
彼は手頃な木を見かけ、思わずその下に飛び込んでいた。
ここ一帯でも目立つ大木の幹に寄りかかりながら、彼は胸にたまった息をついた。
顎にしたたり落ちてくる雫を軽く拭う。
どうしてこんな事になったのだろう、と自問しても、答えは出てこなかった。
結局の所、いつもの気まぐれなのだから。
「ねえ」
夕食を取り終えて、宿に帰る道でのことだった。
この時はまだ、空は晴れていたのを覚えている。
隣を歩いていたアコライトが急に立ち止まったので、二、三歩前に進んだ後剣士も立ち止まる。
「帰巣本能って知ってる?」
いたずらっぽい笑みを浮かべながらの唐突な問いに剣士は面食らったが、
頭の隅から知識を引っ張り出してくる。
「……確か、動物が自分の家に帰ってくることでしたっけ」
「そうそう、よく知ってたね」
ほめられれば悪い気はしないのか、照れ隠しに軽く頭をかく。
「で、それがどうかしました?」
「うん。一度、試してみたいと思ってたんだ」
剣士はその言葉の意味に気が付かなかった。
そして、彼の手にいつのまにか握られていた青い魔力の媒介にも。
「なるべく早く帰ってくるんだよ」
最後にまたもにっこり笑って、彼は神に祈りを捧げた。
「ワープポータル」
相も変わらず落ち着いた声がその呪を囁いたとたん、剣士の足下に光の輪が出現した。
「な……!」
剣士にできたのはせいぜい小さな声を上げる程度のことで、発動した呪文から逃れることはできない。
彼がその場から消える直前、最後に見たのは手を振っているアコライトの姿だった。
その場面を思い出してしまって、剣士は頭を垂れた。
あの後、何処ともしれぬ場所に彼は出現した。
道を訪ねようにもすでに人の姿はなく、見覚えがある土地かすら夜の闇に紛れて定かではない。
とりあえず適当に方向を決めて走っていたのだった。
これは彼の言う『帰巣本能』なんだろうかと考えかけ、その考えを打ち消すように頭を横に振る。
そんなものが人間に備わっているわけが……あってほしくはない。
せめて雨さえ降っていなければ、と彼は空を見上げた。
走り始めてすぐに降り始めた雨は収まることを知らず、むしろ雨足が激しくなってきたともいえる。
まさか雨まで降ることは彼も予測していなかったと思いたい。
この大陸では雨はさしたる予兆もなく突然降り出す。
はあ、と頭を木の幹に預ける。
このまま雨宿りといきたかったが、頭の中に彼の台詞がリフレインしてくる。
『なるべく早く帰ってくるんだよ』
彼のことだから、きちんと時間まで計って待っているに違いない。
最悪、彼の気に入らない結果を出したらもう一回チャレンジと言うこともあり得る。
行かなければならないと幹から離れかけた時、生き物が身じろぐ気配がした。
不思議に思い、木の向こう側を覗いて見る。
剣士は目を丸くした。
一匹の、デザートウルフの子がうずくまっていた。
茶色の毛皮が雨に濡れてぺったりとはりつき、寒そうにふるえている。
よく見れば怪我をしているようで、右後ろ足に赤いものがにじんでいる。
疲れたように目を伏せていたが、剣士に気が付いてか目を開ける。
そのとたんに歯をむき出し、低くうなり始めた。
剣士は一瞬躊躇したが、放ってはおけずにしゃがみこみ、手を差し出した。
がっと指に食いつかれる。
革の手袋に穴を開けて、指にまで牙が食い込んできた。
「……っ」
痛みに耐えて、そっと逆の手でデザートウルフの体に触れる。
恐怖からかさらに牙にかかる力が強まるが、剣士は引かなかった。
ゆっくりと濡れた毛皮を撫でていく。
「大丈夫、大丈夫だから」
柔らかい声で言い聞かせながら、手は止めない。
やがてデザートウルフの緊張が解けて牙をゆるめた頃には、彼の手袋は血まみれになっていた。
自分の傷口を確認するよりも先にデザートウルフの傷口に目を落とす。
冒険者によって作られた切り傷や打撲ではなく、仲間の牙によってできた傷だということは想像がつく。
肉が見えていて、痛々しい。
清潔な布に赤ポーションを染み渡らせ、傷口をふき取ってやる。
ぴくりとデザートウルフの体が震えたが抵抗する元気もないらしくそのままでいる。
残りのポーションを慎重に傷口にかけ、赤いハーブを取り出す。
布を細く切り裂き、赤いハーブを巻き付けて足を縛る。
応急処置に過ぎないが、野生の回復力があればなんとかなるだろうと見当をつける。
問題はデザートウルフの体力だった。
体が小さく雨にうたれたこともあり、体力があまり残っているとも言えないだろう。
その時、けぶる雨の向こうに巨体が見えた。
デザートウルフの耳がぴんと立った。
ゆっくりと、確実にこちらに近づいてくる。
剣士は目をこらしたが、剣に手をかけようとはしなかった。
もはや確実に相手が断定できる所まで来て、それは足を止めた。
一声、吠える。
デザートウルフは何とか立ち上がり、それの所まで歩いていった。
最後に一つ、キャンと鳴いてから。
子供の数倍の体格を持つデザートウルフの親は、来た時と同じくゆっくりと去っていった。
子供が付いてこられる程度の早さで。
その姿が完全に消え去ったのを見て、剣士は改めて息をついた。
後ろの幹に体重をかけて、少しの間だけ目を閉じる。
「――元気で」
願ってはいけない言葉は聞くものもなく、雨に混じって溶け消えた。
「お帰り」
ようやく宿にたどり着くと、タオルを持ったアコライトが帰りを待ってくれていた。
「ただいま戻りました……」
力無く呟いている間も、アコライトが髪を拭いてくれる。
「すっかり濡れちゃったね、まさか雨になるとは思わなくて」
ごめんね、と言いながらタオルは顔の方に回ってきていた。
柔らかなタオルが濡れた肌に心地良い。
「でも、雨宿りしなければもっと早かったのに」
「はあ……って、えっ」
少し高い所にある彼の目を見つめる。
「ま、甘い所も君の一部だしね」
「いや、あの……なんで」
彼の姿は濡れているようには見えない。
口振りからしてデザートウルフの子の事も知っているようだが、一体いつ、何処で。
「……神サマのご加護」
説得力のかけらもない彼の言葉に、剣士はがっくりと肩を落とした。
「でも、どうしてあの子を助けたの?」
風呂に入って暖まり、ベッドに潜り込むとアコライトがそんなことを聞いてきた。
ベッドサイドのランプを消せば、完全に部屋は闇に閉ざされる。
「放っておけないでしょう」
あの小さな姿を思い出して彼は答えた。
「怪我をしていたとは言っても、所詮は魔物だ。成長したら人を襲うかもしれない」
「……わかってます。冒険者として失格の判断だって事は」
常より厳しいアコライトの声は、剣士のことを心配してくれているからこそだ。
それがわかっているから、彼も応えなくてはならない。
「でも」
ぎゅっとシーツの端を握りしめる。
「それでも、ぼくは救えるものは救いたい。目の前で助けを求めているものを、見捨てたくはない」
剣士が見ている天井は闇に侵食されていて、実際何も見えてはいなかった。
彼が天井に何を見ているのかはわからない。
アコライトはしばらく何も言わなかった。
しばらくして、剣士の手を柔らかく握ってこう言った。
「君がそう思うのなら、つらぬきなさい」
言われなくても、そうするのだろうけど。
その後眠りに落ちるまで、彼は剣士の手を放そうとはしなかった。
End.
……本当に何で知ってるんだろう。
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