さようなら


      もう聞くことも出来ないけれど、どうしても貴方に言いたいことがある。
      どんな言葉でもいいから返してくれませんか。
      貴方は、幸せでしたか。



      風の、強い日だった。
      町の外壁にもたれて目を閉じている青年のマントを持ち上げて風が吹き抜けていった。
      ゆっくりと目を開けると、木々の間を風が抜けていく。
      首都の西には人影もなく、魔物も近づいては来なかった。
      胸にわだかまる思いも共に吐き出せればとついたため息にはさしたる効果はなく、微かに感じる頭痛が非道くなっただけだった。
      横に所在なさげに佇む人の気配に気が付いて目を向ければ、年若いマジシャンが立っていた。
      「……行かないんですか?」
      静かにかけられた言葉にひょいと肩をすくめる。
      「行くさ。俺が行かないで誰が行くんだ?」
      壁を軽く押して体を離す。
      壁に触れた剣が軽く音を立てる。
      少し辛そうに、マジシャンが眉を寄せた。
      「皆さん揃っておいでですよ……あのお師匠様に、あんなに人望があったなんて」
      知らなかった、と紡ぐ彼の瞳に涙が湛えられていくのを、青年は見て見ないふりをした。
      「ただの馬鹿だよ、あいつは」
      行くぞ、と軽く声をかけて門へと歩き出す。
      大きく涙を拭ってから、マジシャンも後について歩いていった。


      彼と懇意の仲だったプリーストが死者への祈りを捧げる中、青年はぼんやりと考えていた。
      葬儀は必ずしも死者のためだけにではなく、生者のために行われる意味もある、と。
      形式ばった儀式を重ねることによって、その人がもうこの世にはいないのだと、もう決して会えないのだと
      生者に思い知らせるために。その心に刻ませるために。
      そんなことに意味はないのに、とこの場にそぐわない笑みを口だけで浮かべる。
      息を引き取った時のあの手の温かさも、それがだんだんと冷たく硬くなっていく様も、これ以上ないほどしっかりと覚えているのに。
      正装ではなく普段の格好ではあるが、胸には黒い喪章を下げた。
      それだけで許してくれよと胸の内で語りかけ、青年はきっと棺を睨んだ。
      横に並んだマジシャンはうつむき、先程からしきりに布で目元を拭っている。
      参列した女性のしゃくり上げる声とプリーストの聖句だけが、暖かな光が射し込む大聖堂に響いていた。


      青年は泣きたくなかった。
      別れの涙はもう流した、こみ上げる思い出は一人の時に涙に溶かし込んだ。
      それでも。
      最後のお別れを、と妙に詰まった声で発して棺をずらしたプリーストに促されて彼の顔を見て。
      一粒、二粒と涙が頬を伝っていくのは、どうしても止められなかった。
      眠っているみたいだ、とぽつりと誰かが呟く。
      起きあがって文句言われたりして、と泣き笑いの表情でハンターが漏らした。
      お師匠様、と消え入りそうな声でマジシャンが言う。
      その顔は微かに笑みをたたえているようにも見えて。
      それでいていつもの無表情にも見える。
      生気をなくした白い肌でさえ愛しかった。
      涙を風が乾かしてくれた時には、彼の姿はもう見えなくなっていて。
      さようならと一言だけ、小さく声をかけた。



      誰もいなくなった墓場に、青年は一人立っていた。
      ついさっきバードが奏でた追悼の歌が、今も尚耳の奥に残っている。
      皆が気を遣ってくれたということはわかっていた。
      今頃は大聖堂内の一室で、彼を偲んで食事をしているだろう。
      「……俺より先に、いっちまうなんてなあ」
      真新しい墓石に話しかけても反応があるはずもなく、言葉は発した先から風にさらわれていく。
      ばさばさと音を立てるマントが煩わしく思えたのと同時に、鬱陶しげにマントを捌いていた彼の姿が思い出される。
      「過去形で思い出すのはまだ早いってのに」
      目元を押さえて軽く苦笑する。
      「なあ、ひとつだけ、聞きたいことがあるんだ」
      墓標に手を置けば、錯覚だとわかっていても温かく感じた。
      なんだ、用があるならさっさと言え――と、彼の人の声で言われた気がして、苦笑を深くした。
      「……幸せだったか?」
      自分の人生を生きて。
      人と出会って。
      冒険者になって。
      ――俺に会って。
      共に生きて、生きて、生きて。
      それが全て終わった時、貴方は。
      「幸せだったか」
      彼が眠っている場所に目を落としても、答えは返ってこない。
      大通りの喧噪が嘘のように静まりかえったこの場所で、青年の言葉を聞く者は誰もいない。
      もう、誰もいない。
      口の中で何事かを呟いてから、青年はぐしゃぐしゃと自分の髪の毛をかき回した。
      「俺は幸せだったよ」
      だから、まだそちらへは行けない。
      自分が後を追ったら、あの経験不足のマジシャンはどうなるのか。
      案外面倒見がよかった彼を慕って集まった、あの仲間達は。
      言い訳だとはわかっていても、その理由に縋りたくなる。
      尤も、追いかけた所で怒鳴られまくったあげくに蹴りの一つも入れられそうだが。
      「じゃあ、またな」
      お前の分まで生きるなんて言えないし、お前の代わりが出来るほど器用でもない。
      でも、自分の人生を生きることなら出来るから。
      後ろを向いて手を軽く上げる。
      そのまま青年は墓場から立ち去った。

      寂しくはない。
      悲しくも、ない。
      ただ、虚しいだけだ。

      幸せだったから、貴方に聞きたかった。
      ずっと聞けなかったから、今しか聞けなかった。
      貴方も、幸せでしたか。



      End.






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