僕と博士と奇妙な日々


      その人は、今日も自室の机に向かってペンを走らせていた。
      もちろん机に文字を書いているわけではなく、その上の紙に書いているのだけど。
      「博士、入ってもいいかい?」
      部屋のドアからこっそりと覗いていた僕が声をかけると、彼は振り返った。
      そこに切羽詰まった表情が浮かんでいなかったことに安堵して、所狭しと重ねられた書物たちを崩さないように
      静かに部屋の中に足を踏み入れていく。
      「ちょうど昨日、ひとつ詩を書いたところだ」
      小さな眼鏡を鼻の上にちょこんとのっけている博士は、机の横に積まれた紙の束の中から一枚の紙を出してくれた。
      これだけ書物や紙が散乱しているのに、彼は全ての位置を把握しているらしい。
      彼を博士、と呼んでいるのは第一印象からだ。
      実際彼は全く博士なんかじゃないのだけれど、そう呼んでも彼は怒らなかったし否定もしなかった。
      彼は一口で言うのなら、詩人であり哲学者であり小説家でもあり、人間観察者でもあった。
      白と黄土を基調にした彼の服は一般の平民たちと何ら変わらないように見え、僕たち冒険者とは全然違った
      存在のようでもあった。でも、僕と博士は友達だった。
      僕がバード、すなわち吟遊詩人として見ても彼が生み出す歌詞は素晴らしいものでもあったし、実際僕が曲をつけて
      みたこともある。僕たちが友だちになれたのは博士曰く、僕のいつもかぶっているピエロ帽がお気に召したかららしい。
      ここにつけてくると周りのものを倒しそうだから止めようかと思ったこともあったが、博士は面白いことがことのほか
      大好きだったので、彼の楽しみを減らすこともあるまいといつもかぶったまま来ている。
      博士の仕事はほとんど全てが何かを『書く』ことなのは確かだ。
      現に彼がペンを持っていないときなど、基本的欲求を満たしている時以外はごく少ない。
      博士は切ない愛を描いた歌詞も書いたし、お堅い研究者が喜びそうな分厚い本も書いた。また、大衆娯楽小説も
      彼が得意とするものの一つだった。
      放っておけばいつまでも書いていそうな彼なのに、以外にもその交友関係は広い。僕が一番頻繁に会いにきて
      いるようではあったが、いかにもといった感じの格好良いクルセイダーや、反面いかにも変そうな蝶仮面の
      アサシンなんかにも会ったことがある。かと思えば僕よりも強いノービスが顔を出したり、頭のいいセージと
      議論を交わす時なんかもあるという。そんな冒険者たちの話を元に話を作ることも多々あるって話だ。
      正直、僕は今までに出会ったどの人よりも博士のことが気になっている。
      「見たいかね?」
      答えなどわかりきっているくせに、わざわざ僕の目の前で紙を止めて聞く。眼鏡の奥に見える瞳は、そこいらの
      子どもよりもきらきらしていた。博士は子どもみたいだ、と僕が言ったときは、子どもであることは物事を探求
      する第一歩であると言った。そのときはなんとなくわかったようなふりをして頷いておいた。
      「見たいさ」
      そう言うと、博士は焦らしたわりにはあっさりとその紙を見せてくれた。
      僕は紙を受け取ってから、客人用に置いてある背もたれのない椅子に腰掛ける。
      感想を聞きたいわけではないのだろう、博士は仕上げてしまった作品にはいかなる付加価値も見出さない。
      博士の公的な立場は、一応国付きの書記官、となるらしい。しかし僕は博士がお城に行って事務をしている姿を
      見たことがないし、第一彼にそんなことができるとは到底思えない。細かい仕事が不得手であることは、この
      書物に埋まりそうな部屋を見れば容易に想像がつく。だが彼が食べ物に困って飢えるようなことはなかったし、
      いわゆる金貸し商人が家に殴り込んでくることもなかった。博士が書いた紙は全部王国の人がまとめて持って
      いって、しばらくしてから持っていったものを本の形にしてそれ用の部屋に置いていく。そこがあまりにも
      ひどい状況だったので、博士と一緒に整理した日はまだ記憶に新しい。博士の本がよく売れるのかどうかは
      僕は知らない。そもそも冒険者は魔術師や錬金術師など本が身近な職業のものでなければ、かさばる上に重い
      本は持ち歩かないどころか買いもしないのだ。保管する家などがある人なら別かも知れないが。
      渡された紙に書いてあった歌詞は、ごく普通の日常を描いた歌のようだった。少しばかり拍子抜けした僕は、
      何も言わずにその紙を山積みにされた塔の上に重ねた。
      「どうだい」
      珍しいことに、博士は書くことすら止めて僕を見ていた。博士から感想を求められることなど今までなかった
      僕は戸惑ったが、嘘を言ってもすぐに見抜かれることはわかっていたので、正直に答えた。
      「ごく普通、って感じだ。歌のモチーフとしては珍しいのかも知れないけど、目新しいものじゃない。
       刺激があった方が面白い、と僕は思うよ」
      「ふうむ、そうか」
      博士はその紙を手にとって、天井から下がっているランプの光にすかすようにかざした。真っ昼間だというのに
      ランプをつけているのは、窓の前にも棚が据え付けられていて明かり取りの役目を果たしていないからだ。
      上を向いている博士の顔は、いつもよりずっと年を取って見えた。僕が博士についての興味が尽きないのは、
      博士の正体不明さ加減にも由来している。なんといっても博士は年齢を感じさせない人だ。何かを書いている
      ときや自分の好きなことを話しているときなんかは興奮していて子どもっぽく、二十代前半にも見える。でも
      ふとしたときの深みのある顔は三十代にも見えるし、上手く文章が出てこなくて悩んでいるときは四十代五十代まで
      年齢が上がってしまう。全くつかみ所がない人物なのだ。
      「しかし、これが私の理想の作品なんだが」
      むう、と悩むように紙面を睨んだまま言われて、僕はちょっとどころでなく驚いた。
      「その、始まりもはっきりしなければ終わりもわからない詩が、かい?」
      「そこがいいんじゃないか」
      少し言いすぎたかと思った言葉でさえ博士は受け止め、そして言葉を返してくる。どうも今日は書くのではなく
      話すことによって自分の考えを表すことにしたらしい。ならば、乗っかるのが礼儀というものだろう。
      「いつ始まるかわからない、始まったところで何も起こらない――いつもながらの、登場人物にとっては普通に
       過ぎない話だ。何も変わらず誰も咎めず、そして続きつづけるような話さ。そんな話がぼくは大好きだ」
      「うーん……よくわからないな」
      僕は素直に感想を言った。
      「そもそも何かが起こっているから『お話』になるんだろう? それに、変わらないと意味がないとか言う人も
       いるじゃないか」
      「意味? 意味、か」
      博士は僕の言葉の中から一単語だけ拾って、それを口の中で繰り返した。
      「原初から、ぼくは書いている文章に意味を持たせようとしたことはないよ。意味がない文章など存在する価値が
       ないなどナンセンスだ。この世には、意味など無いものがあふれかえっているじゃないか」
      そう決めつけられて、それでも僕は何か反論できる糸口はないかと頭を働かせる。博士のことは尊敬しているし
      好きだけれども、あっさり言い負かされてしまうのも何か悔しい。
      「でも、博士が書いた詩には充分に深い意味があったし、白いペコペコの話なんかは感動させられたよ」
      「感動するのは君の自由だ。そう、書いてあるものから何を読みとろうとも自由なんだ。人々が変わっていく話
       なんて僕以外の人がいくらでも考えているさ。だから僕は変な人の日常の話を書くことが大好きだ」
      「…………」
      そうまで言われてしまうと、なかなか言葉を探すのも難しい。大体僕は頭を使うのにはむいていないのだ。
      僕が黙ったのをいいことに博士は更にたたみかけてくる。
      「日常の些細な一場面を切り取ること、それがぼくの求める『お話』さ。だからぼくは色々な話を書くんだ。
       それだけ色々な状態を写し取ることができるからね」
      「……わかったようなわからないような」
      「君はそれでいい、わからないことが多い方が冒険は楽しいよ」
      どうも言いたいことを言い終わったらしく、博士はまた机に向き直ってしまった。なんだか、まだ博士と対等に
      話をするには早いと言われているようで少し落ち込む。もっと本をたくさん読んだりすれば博士の言っている
      ことが理解できるようになるのだろうか。博士が書いた本の中で簡単なものは読んだし、歌だって覚えるように
      しているのだけど、やっぱり博士の話を完全に理解するのは難しい。
      「そうだ」
      博士が不意に椅子から振り向いた。僕の目を見て、いつもの悪戯する子どもの目で楽しそうに言う。
      「今度新しい話を書くんだよ。いつも閉じこもって本ばかり書いている変な博士と、好奇心旺盛で努力家の吟遊詩人の話をね」
      「……え」
      目をぱちくりさせて、じっと博士を見返した。博士は少し不器用なウインクを送って見せた。
      なんとなく照れくさくて、それでいてとても嬉しくて、僕は風邪を引いたときみたいに顔が熱くなっていくのを
      感じていた。少しずつ顔がにやけていくのを押さえられない。
      「博士、それって本当かい?」
      「ぼくが嘘をついたことがあったかね?」
      「ずいぶん前になにか美味しいものを食べさせてくれると言ってそのままだったね」
      そう言うと、博士はぎょっと目を丸くした。博士を驚かせるのはとても難しいことなので、見事に一矢報いた
      ように思えてもっと幸せな気分になる。
      「……そんな約束をしただろうか」
      「したよ。いつも僕ばかりに料理を作らせるのは悪いと言って、知り合いの店に連れていこうかって。
       次の日僕が楽しみにしてきたときにはすっかり忘れていたけど」
      「教えてくれれば」
      「忘れられるぐらいなら、その程度の約束だったんだと思って」
      意地悪っぽく言ってみると、博士はまいったなあと言うような顔のまま思案していた。実際ほとんどと言って
      いいほど気にしていなかったのだけど、こういうチャンスを逃す気はない。
      「わかったわかった、今日知り合いの伊豆料理店に連れて行こう。フェンの刺身が目玉だそうだ」
      「やった、だから博士って好きなんだ」
      「ぼくの経済基盤が目当てだったのかい……?」
      なんだか情けない感じで博士が肩を落とす。僕はついつい笑い出したくなるのを必死で押さえた。
      「そうだ、博士。ありがとう」
      笑う代わりにお礼を言うと、博士は顔を上げてこっちを見た。
      「いや、礼には及ばないよ。ぼくが忘れていたのが悪いんだ」
      「そっちじゃないんだけど」
      「なんだい?」
      ため息混じりで小さく言った言葉を聞き取れなかったのか、聞き返してくる。どうにも、妙なところでずれて
      いるのも博士の魅力の一つかも知れない。
      「なんでもないよ!」
      僕は精一杯変な顔にならないように笑った。
      今日の夕飯は海鮮料理だ。でも、イズルードの料理屋ってことは早めに出ないと夕飯に間に合わないかも知れない。
      僕は頭の中でいかにして博士の支度を迅速にすませるかを考え始めた。



      End.




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