大切なもの
見通しの良い平原に、一本背の高い木が立っている。
その下に、楽器を爪弾いているバードが一人座っていた。
かたちのよい唇からゆったりとした歌声が流れる。
「や、お待たせ」
その声にバードが顔を上げると、木の後ろ側から顔を出した剣士が笑っていた。
すとんとバードの横に腰掛ける。
「相変わらず早いな」
「他にやることがないからね」
「あっそ……」
俺との約束は暇つぶしかよ、とぶちぶち言っている剣士の頭をぽんぽんと叩く。
「君との約束が待ち遠しかった……ということにしておこう」
いささか幼い面差しの剣士は顔をほころばせかけて、一瞬のちに眉を寄せた。
「なんか騙そうとしてねえ?」
「あはは」
バードは否定も肯定もせず、わざとらしく笑い声を立てた。
むっとした剣士はそっぽを向く。
視界の隅をぽいぽい跳ねるポポリンが通り過ぎていった。
ふむ、となにやら頷いたバードは楽器を持ち直し、新しい歌を歌い始める。
最初は感心のないかのように装っていた剣士だったが、聞いたことのない歌であることに気が付いてこっそりと耳を傾ける。
蝶と蜘蛛の歌だった。
「……新曲?」
最後の音が風にさらわれていくのを確認した後に、視線は向けずに問う。
「うん、神曲」
「それはダンテ」
何だかよくわからない問答をしながらも、剣士の意識が自分に向いたとわかってバードは嬉しそうな顔をしている。
「感想は?」
「はっきり言って、よくわからん。クリーミーとアルゴスしか浮かばないし」
率直な意見を聞いてバードは口の中で唸った。
自分の中ではあくまで昆虫サイズで想像していたのだが、大きな方でやられるとなんだか不気味なものしか浮かんでこない。
失敗かあと小さく呟くと、慌てて剣士が首を横に振った。
改めてバードの方へと向きやる。
「や、俺がそう思っただけだし、曲の方はかっこいいし!」
「ありがとう」
改良を考えてみるかと曲だけを弾き始める。
「ほんとに歌が好きだよな……」
「うん、好きだよ」
曲に専念しているかと思って呟いた言葉に返事が返ってきて剣士は驚いた。
手は動かしたまま、バードが独白のように言葉を紡ぐ。
「凄く好き。あれだね、まさしく天職って気がするよ」
「そらよかった」
気のなさそうに言葉を放って、剣士はその場に寝転がった。
首筋にちくちくあたる草がくすぐったく、ほのかに気持ちいい。
「君は歌が嫌い?」
いつの間にか楽器の音は止んでいた。
座ったまま、バードがじっと剣士を見ている。
「嫌いじゃないよ、あんたが好きなもんだし」
でもさ、と小さな声で付け加えようとして止める。
その先を聞きたそうにバードが見つめても、剣士は言葉を発しなかった。
やがて見ているのに飽きたのか無言のうちに何かを感じ取ったのか、バードがふいと目をそらした。
空はよく晴れていて、ハケで描いたような薄い雲が美しい。
「歌ってのは僕の生きがいで」
空に視線を向けたまま、剣士に聞かせるでもなくバードが言う。
「生きがいと生きる意味、どっちが大切か比べても意味無いからなあ」
照れ隠しにか、かりかりと人差し指で頭をかく。
その言葉は剣士の心の内を読みとっていたのか、何も言わずに剣士はバードに背中を向けた。
そちらを見ないまま、バードが言う。
「……顔、赤いよ」
「……言うな」
低いつぶやきが返ってきたことに満足したのか、バードは三度楽器を構えた。
そこから流れてきたのは、昔剣士が好きだと言った古い民謡で。
腕を枕にして剣士はそっと目を閉じる。
視界の端に、すいと通り過ぎる一匹の蝶を捕らえながら。
End.
小説へ
|