髪を切った日
宿の廊下を、一つの部屋を目指してセージが歩いている。
柔らかな衣擦れの音こそするが、常の習慣故か足音はほとんどしない。
口元に微かな笑みを浮かべて歩く彼の、頭の後ろで子馬の尻尾に似た形で結われた髪が右に左に揺れる。
目当ての部屋の前まで来て、彼はひたりと足を止めた。
閉め忘れたと思われる扉の隙間から、人の声が聞こえてきたので。
「今日は駄目だって言ったろ」
柔らかな声は彼にとって聞き慣れた声だ。この部屋に泊まっている、少々マッドなアルケミストだったりする。
多少咎めるような響きが混ざった声はあまり聞いたことがないもので、セージの口元から笑みが消えた。
「邪魔はしねーよ」
低音の声には明らかに聞き覚えがあるとは言えなかったが、部屋の主に横柄な口を叩く男には覚えがあった。
真っ赤な服のそこかしこに赤黒い染みをつけてそのままにしているローグなのだが、セージは彼ぐらいしかあのアルケミストを見下す姿勢を持った男を知らない。
それはともかく、果たして自分はどうしようかとセージは悩んだ。
このまま立ち聞きをするのは明らかにマナーに反しているし、そのような行為をアルケミストが好むとも思えない。
かといって最初に約束をしていたのは多分自分であるし、やっと用事を済ませて会いに来たのにあっさり引き下がるのも何か釈然としないものがある。しかし取り込み中の所を邪魔するのも気が引ける、と彼が堂々巡りの思考の渦に入り込みそうになった、まさにその瞬間だった。
「好きなのは君だけだ」
すっと、何の前触れもなくアルケミストの台詞が脳髄に叩き込まれた。
考え事を始めると多少まわりの情報をシャットダウンしてしまう自分の性質を知ってはいるが自覚には至っていないセージは、突如として飛び込んできた台詞に固まってしまった。
アルケミストとは、もうずっと他人には大仰に言いふらせない関係である。
それはセージの一方的な考えではなくアルケミストもそういう風に、つまりまあ世間一般で言う恋人のような関係であると彼のことをとらえていた――はず、であった。
しかし先程の台詞は淡い吐息混じりで、若干熱が篭もっていたようにセージには感じられた。
アルケミストの目の前にいたのはセージではなく別の人間で、しかしあの台詞を言ったのは間違いなくアルケミストで、とそこまで考えたところで、すっと指先から熱が引く感覚をセージは味わった。
頭ががんがんと痛む。
つまりこれはなんだ、とセージはふらつきそうになる足を叱咤しながらどうにかその廊下を離れるべく歩き出す。
単純に言うなら浮気なのかと手すりにつかまって階段を下りる。
それとも、と、その結論に至るのが恐くて遠回りしていたのだが。宿の外の陽光が目に眩しかった。
それとも、自分は振られたということなのか。
実際今からあのローグと結ばれる(嫌な言葉だ、と心から思った)というのなら振られる、といった方が適切だろうかと妙なことを考えつつも、足は自然と宿から離れる方向に向かっていく。飛んできた砂が目に入る。
頭痛が更に酷くなった。
目的も無しに歩いていたら、いつの間にか露天商が集まる通りまで来ていたらしい。
常に人で賑わう首都とは違って、ここ砂漠の都市モロクでは決まったところに何軒か露店が並ぶ。
その中で、ここでは珍しく消耗品以外の品が主体の露店にセージは目を留めた。
立てかけられた槍はぎらりと激しい光をはね返し、板の上に並んだ短剣は鞘に入ってはいるものの、柄の意匠からして出来の良い品であることを思わせる。マジシャン時代にお世話になったものから今でも使っているダマスカスまで、様々なものが並んでいる。
「おっ、にーちゃん良かったら見てきなよ」
露店の主、日焼けしたブラックスミスが白い歯を見せて笑っている。
特に必要なものではなかったが、懐かしさにかられて手に取ってみた。
こういうものを眺めている時は余計な事を考えなくて済む、という理由もあったのだが。
「へー、あんたきれいな髪してんね」
本人としては他意もなかっただろうが、愛想のいいブラックスミスはさらっとそんなことを言ってのけた。
セージの頭に、違う人物が発した言葉がリフレインする。
――綺麗な髪をしてるね。伸ばしてみたら?
初対面の時言われた台詞だった。奇妙な人だなという第一印象を抱いたのは事実だ。
あの瞳で別の男を見つめて、あの声で別の男の名を呼ぶのだろうか。
「……抜いてもいいか?」
一際ずしりと重い短剣を手にとって尋ねた。その重みは実際心地良い。
「どぞどぞ」
尚もにこにこと、愛想の良さを崩さずにブラックスミスが勧める。
軽く刀身を確認すれば、ごく淡い緑色の光を帯びていた。
腕のいいブラックスミスの手によるものだろう、ウインドダマスカスを完全に鞘から抜き去る。
刀身に映る自分の顔を瞬間確認してから、セージは突然後ろでくくっている髪をひっつかんだ。
右の手で、場所を確認する必要もなくその髪の束を根本から切り落とした。
「え……っ!?」
全くためらいもない動作に泡を食うブラックスミスを余所に、セージは左手に自分の一部だった髪を持ったまま口の中で短呪を唱えた。
瞬時に呼び出された魔法の炎によって、髪の束は灰にもならずに燃え尽きる。
頭に張り付くように残った紐を適当に剥ぎ取ってから何事もなかったかのようにダマスカスを鞘に戻して、悪かったなとだけ言い残してセージはその場を立ち去った。
ねえ俺のせい? 今のって俺のせいですかー!? と騒いで、周りから同情の目で見られているブラックスミスを顧みることなど、全くしなかった。
「こーら、こんなところで何やってるの」
かけられた声に、セージは大げさに思えるほどびくりと体を震わせた。
二度と聞かないかも知れないと思い詰めていたアルケミストの声だった。
薄暗い路地裏は人が通ることも少ないから足を休めていたのだが、どうしてここがと言いかけて、自分たちがパーティーを組んでいたことを思い出した。一度登録すれば、解除するまで相手の場所は分かってしまう。
「用事は終わったの? 約束忘れて……!?」
二、三歩セージの方へと踏み出して、アルケミストは瞬間絶句してその場に足を止めた。
セージが顔を合わせづらいと背けた結果、ざんばら切りの頭を目撃してしまったからだ。
「ど、どうしたの!」
慌てて駆け寄ろうとするアルケミストの顔を見たくなくて、セージは壁に預けていた背を離して数歩後ずさった。
何がしたいのか分からない、というように彼の顔がきょとんとする。
「……俺のこと」
ぽつりと言って、セージはこれから言う台詞のことを考えただけで泣きそうになった。
それでも言わなければなるまいと勝手に決心していたのだ。
優しい彼が、自分から別れを切り出せないだろうと考えているらしい。
「も、好きじゃないんだろう?」
「はい?」
アルケミストの目が丸く見開かれた。実験に使った薬品が突然歩き出した時よりも驚いた顔をしている。
「他に、好きなやつができたなら」
涙が浮かんでくるのだけはこらえられなくて、セージはぎゅっと唇を噛んだ。
「俺のことなんて、捨てたって……」
「ちょっと待っていやかなり待って」
大分考えた別れの台詞を邪魔されて、思わずセージは相手の顔を見てしまった。
心底困ったように慌てている顔さえ綺麗だなと思えるのは、自分が好きな相手だからだろうとぼんやり思う。
もう近くで見ることもないのかなとまで考えが及んで、じわりと景色が滲んだ。
「あああ、泣かないで、ねっ」
器用な手が俯いたセージの肩を支え、もう片方の手がざんばらな髪の切り口を軽く叩く。
近づかれる前に逃げようと思っていたのに、アルケミストの方が一枚上手だったらしい。
体温すら愛しくて、大泣きしてしまいそうになるところを辛うじてこらえた。
「順番に、順番に話してくれるかな。他に好きな人ってどういうこと?」
落ち着かせるように耳元で話すアルケミストの声は、セージの好きな優しいものだった。
「だって、すきなのは君だけだっていってた」
「……君だけ」
ぴ、とセージの鼻先に指を突きつけると、彼は思いっきり首を横に振った。
「俺じゃ、なくて……あの、ローグのひと」
「確かに今日会ったけど……あれ、宿に来たの?」
改めて聞かれて、セージは立ち聞きしたことがばれてしまうと気がついてはっとした。
それでもアルケミスト相手に嘘はつきたくなくて、仕方なく頷く。
「声かけてくれれば良かったのに」
そうすればあんなのすぐ追い出した、と呟くアルケミストの声は幸か不幸かセージには聞こえていない。
「取り込みちゅう……だったし。あいつのことがすきなんだろう?」
ゆるりと顔を上げたセージは、アルケミストが息を呑んだことにも気付かない。
恐ろしいタイミングで、ぽつりと一粒涙がこぼれた。
アルケミストは少しだけ狭い空を仰いで、ほ、と息を吐いた。
小さな声で落ち着け落ち着け落ち着けと呟いて、しっかりとセージの目を見据える。
「どこからそんな恐ろしい勘違いをしたの」
「こくはく、してたじゃないか」
「誰が」
少し逡巡したセージがはっきりと自分を指さしたのを確認して、アルケミストは再び空を仰ぎたい気分になった。
彼は心の底から数時間前の自分を殴りに行きたい、と思う。
「君、ちゃんと話の前後を聞いたかい?」
考え事に没頭すると聴覚がまともに働かないセージの特徴を思い出して、アルケミストが確認する。
そう真面目に聞かれてしまうと自信がないセージは、今度はゆっくり首を横に振った。
「あれは、相手のことが好きですよと告白してたわけではなく……そういうことが好きなのは君だけだ、と言ってたんだよ」
「そういうこと?」
「たいしたことじゃないから気にしないでいい」
その辺はあまり突っ込まれたくないアルケミストであった。
「え……じゃあ、あの人に乗り換えるから俺のこと要らなくなったわけじゃ」
「断じてない」
アルケミストはこれ以上ないぐらいきっぱりと断言した。
「私が好きなのは君だけだよ」
真っ直ぐにセージの目を見て、アルケミストが囁く。
残っていた涙を指先で拭われて、ぱっとセージの顔が赤らんだ。
「本当か?」
「大好きだよ、本当に」
そこでふわりとアルケミストは笑った顔をセージに見せた。計算尽くである。
セージの顔が更に赤くなるのを楽しそうに見てから、再び髪の切り口に手を当てる。
「何で切っちゃったの……もったいない」
「え、なんか……何となく?」
今考えてみれば、セージ自身にも何故切ってしまったのかよく分からないのだ。
衝動的な行動ならそんなものである。
なんだか大げさに肩を落としたアルケミストにセージは慌てる。
「あ、でも、また伸ばすから!」
「うん、楽しみにしてる。じゃあ、とりあえず切りそろえてあげるよ」
後でね、と耳元で囁いて、アルケミストはセージの首筋に噛みついた。
「わあっ!?」
驚いて噛まれたところを押さえるセージの目に、悪戯っぽく笑ったアルケミストの顔が映る。
「人の気持ちを疑ったおしおき、だよ」
「むー……」
言い返せずに黙ったセージには、別のお仕置きを頭の中で想像するアルケミストの心は、分からない方が幸せであろう。
宿に戻るかと歩き出したアルケミストの後ろを、何も知らないセージは慌てて追いかけるのだった。
End.
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