始まりは雨の日に


フェイヨンへ買い出しに行った帰り、まとわりつくような雨が降ってきた。
雨除けになるようなものは持ってこなかったアルケミストは、空を見上げてため息を吐いた。
片眼鏡に細かい雨粒が幾つも幾つも付着する。
アルケミストが最近買い上げた研究所までは、まだしばらくある。人に邪魔をされたくなかったので、フェイヨンとアルベルタの間あたりに存在する建物を選んだのは失敗だっただろうかと、アルケミストは珍しく反省をした。
なにせ本格的に自前の研究所を持つのは初めてだ。今までは腕を買われて企業に雇われていたが、方向性の違いを見出して先日抜けてきた。早々に昔の伝手で傭兵ギルドに所属したおかげで、追っ手がかからなかったのが幸いだった。
よって、研究所と言っても今はまだアルケミスト一人だけの城に過ぎない。そのうち用心棒か、さもなければ助手でも雇うかと考えているところだ。
雨がひどくなってきた。
徐々に雨粒は肥え太り、落下する勢いを増してアルケミストの肩を叩く。
舌打ちしたい気分をこらえて、彼はひたすら足を進めていた。願わくば、片手で抱えている紙袋が破れませんように。
ようやく研究所の門扉が見えてきたところで、アルケミストはぴたりと足を止めた。
雨はますます強さを増しているというのに、門の前で寝ている男がいる。
尤も、その状態を寝ていると称するのはアルケミスト独特の感性であり、普通ならばすわ行き倒れか、と焦るだろう。しかし彼にしてみれば、研究所の前で死なれるのは後かたづけが厄介だ、ということでしかない。
男はセージのようだった。
アルケミストとはまた違った方面での学者が多いその職業とは、幾度か関わったことがある。
だが、うつぶせで倒れているから顔は見えないのだが、そのセージに見覚えはなかった。
アルケミストは顔かたちではなく、骨格で人間を見分けている。
さてどうするか、と男を見下ろすにあたって、雨に濡れた首筋が目に入った。
骨は太そうだ、と目を細める。体躯はがっしりしているとまではいかないが、服の上からでも華奢な印象はない。アルケミストより背も高そうだった。
有り体に言えば、好みな人物だったのだ。
心を決めたアルケミストは、とりあえずセージをそのまま捨て置いて研究所の中に入っていった。そして、荷物を置いて再び雨の中に戻ってくる。
ひょいと抱え上げる、というわけにはいかずとも、引きずって運ぶことぐらいなら出来そうだった。



最初に知覚したのは、銀色だ。
鈍く沈んだ鋼よりも、軽い色。
それは腕輪の色ではないかと思い至って、セージは勢いよく身を起こした。
「ああ、起きましたか」
だが、そう声をかけられて面食らった。
セージは見たこともない部屋で寝かされていて、最初に見た銀色は横に座っていたアルケミストの髪の色だった。少々記憶が混乱しているのか、セージは数回頭を振った。
「気分はどうです?」
「普通だ……ここは?」
アルケミストに確認するついでに、セージは気付かれないように自分の腕を見た。そこに銀の腕輪はなく、セージは少し安心する。
「ここは私の研究所ですよ、あなたは門の前で倒れていたんです」
「そう、か……」
「どこかに行く途中でしたか?」
「いや」
逃げ出してきた、とは言えなかった。下手なことを言えばこのアルケミストに迷惑がかかるだろう。そう判断したセージは、ベッドから出ようとしてアルケミストに止められた。
「もう少し寝ていなさい、私の見たところ、極度の疲労で倒れたようですし」
「しかし」
「私の敷地内で倒れていたんですから、私の好きにさせてもらいます」
実際には敷地内では無かったのだが、アルケミストの有無を言わさない様子に、元から押しが強い方ではないセージが太刀打ち出来るはずもなかった。
行く当てもない、最後に覚えているのは雨が降ってきた光景だったから、きっと今でも雨は降り続けているのだろう。雨が上がったらお礼をして出ていこうと心に決め、セージは再びベッドに横になった。
「すまない、少し休む」
「ええ、ごゆっくり」
目を閉じると、微かに甘い香りが漂ってきた。
安心して眠るのはどれくらいぶりだろう、と思いながら、セージは緩やかに眠りについた。



セージが眠ったのを確認して、アルケミストはこっそり焚いていた安眠作用のある香を止めた。
自分は慣れてしまっているからもう効かないが、セージには充分な効果があったらしい。
この部屋は研究所の中でも、アルケミストが私室として使っている部屋だった。まだ越してきたばかりなので、ここぐらいしか人を寝かせられる場所は無かったのだ。
一旦ベッドの横を離れ、置いてある机の前に立つ。
一番上の引き出しに、銀に光る腕輪が置いてあった。
まさかあそこの関係者だったとは、とアルケミストは額を押さえた。
未だルーンミッドガッツ王国との交流がない、企業都市リヒタルゼン――以前、アルケミストの職場だったところだ。アルケミストは、そこで主にホムンクルスの研究をしていた。錬金術士ギルドでは、国の承諾が得られないとのことで禁止された学問だったからだ。
基本的なホムンクルスの仕組みはほとんど解明されており、後はそれをいかに応用し、いかに使いやすくしていくかがアルケミストの仕事だった。
恵まれた環境だったが、そこを止めたのは不穏な噂があったからだった。
曰く、人体実験。
ホムンクルスとはまた別の部門であり、また人体実験そのものにはアルケミストは否定的ではない。学問の発展に犠牲はつきものであるという研究者根性を、彼もまた持っていたからである。
よって、噂だけでは止める理由にはならない。噂だけならば。
一度だけ、好奇心に駆られてそちらの研究所所員の振りをして、生体研究所に潜り込んだことがある。そして、その行動が良かったのか悪かったのか、今になってもアルケミストにはわからない。
無数の寝台、おびただしい血痕、うつろな目をした被験者たち。
何よりも異様だったのが、被験者たちの腕につけられたナンバーブレスが、白衣に身を包んだ所員の腕にもつけられていたことだ。もちろん中身は違うかもしれないが、冷たい目をして実験を続ける所員の他に、怯えた態度で従う所員を見て気がついてしまった。
ここでは、一歩間違えば研究者そのものも実験材料へとなり得るのだと。
そこまで思考が至ったアルケミストは、迷わず踵を返した。
そして、その日のうちに辞職したのだ。
自分はこことは違うやり方でホムンクルスを作成してみせる、と建前を言い切って。
セージがつけていた腕輪は、あの時見たものとなんら変わりがなかった。
まだ大分新しかったから、恐らくあのセージは請われるままに研究所へと入り、その実態に触れて逃げてきたのだろう。そして、少しでも遠くへと思い、イズルードから船に乗ってアルベルタまで来たのだろうか。
細かいところは本人に聞かないとわからないが、聞いても答えないだろうとアルケミストは推測する。
大方、目が覚めたら出ていこうと考えているであろうことは読めていた。
「そう簡単には逃がしてさしあげませんよ」
ぱたんと引き出しを閉める。
あそこに雇われていたということは、相応の知識は持っているのだろう。
ならば、助手を探す手間も省ける。
ここにいれば、少なくとも身の安全は保障出来るのだし。
アルケミストはくすくすと一人笑った。
「貞操の安全は……保障しかねますけど」
勝手に決めたアルケミストは、なかなか大変な今後を背負わされたセージをそのままにして部屋を出ていった。目覚めたセージとゆっくりと話をしながら、食事をするために。



End.



小説へ