29 「プライドなんて捨てちまえ」
からん、と小石が転げ落ちていく。
まさしく断崖絶壁と呼ぶにふさわしい峡谷、底には急流が見える。
その上端に、一人のウィザードがぶら下がっていた。正確には、上の大地に腹ばいになったブラックスミスに
腕を取られてかろうじてその場に残っている、と言える。
「……っ、く……」
ブラックスミスがぎり、と奥歯をかみしめる。
とっさに放ったカートの重みはないが、ロープはカートの底にほっぽりっぱなしである。
ウィザードの左手首をしっかりと掴んだまま、彼は退くことも進むことも出来ない状況に置かれていた。
「離せ! このままでは二人とも」
「うっせえ、言うなっ!」
二人とも落ちる、と言いかけたウィザードの言葉を怒鳴り声で遮る。
そもそも道を間違えてこんな崖の上に出てしまったのはブラックスミスの不注意だった。
自分の膂力だけでは引き上げるのは難しい上、人が通りかかる気配もない。
額に浮かぶ汗が否応なしに焦りを加速する。
「いいから離せ、私はどうとでも」
妙に冷静で静かな声が腹に立った。
「……どうでもいいってか!? ふざけんじゃねえ!」
怒鳴ったことで力が抜けないように、腹筋に力を込める。
「あんたはいっつもそうだ! 頭が良いんだか何だか知らねえが……」
つい、と汗が頬を伝った。滑りそうになる手を必死で繋ぎ止める。
「プライドなんて捨てちまえ! 命がなくて何になるってんだ!」
堰を切ったように怒鳴り続けるブラックスミスをウィザードはしばし目を丸くして見つめていたが、やがてため息を吐いた。
「……そうか、後悔はしないな?」
「あ?」
聞き返した言葉に応えることはなく、ウィザードの足下から熱い空気が上昇する。
ほのかに赤く染まった気体は、魔法の発現の証。
目を閉じたまま、彼の魔力が細く、こよりを依るように研ぎ澄まされていく。
魔法は自分の中の魔力を集中させ、最後に発動の言葉を言うことによって成る。
大きな魔力を練る精度が高いほど威力も高く、発動するに足る状態を作り出す方法が精練されていくほど
発動までの時間が短くなる。
事態についていけないブラックスミスはただ目をみはった。
すいとウィザードの目が開く。黒の瞳は、まっすぐにブラックスミスを映していた。
「ファイアーボール」
発動の言葉は、彼の場合呪文の名称を唱える。
突如として出現した赤く燃える塊は、狙い違わずウィザードの足が浮いている少し下の岩肌に着弾した。
派手な音が周囲に響きわたり、爆風と大小の岩石が弾け飛ぶ。
「わーっ!?」
いきなり全く予期しなかった状況を目の当たりにして、ブラックスミスは思わず叫ぶ。
しかし本能的に右手の重みが軽くなったの感じ、爆風の力を借りて一気に引き上げる。
どさり、と短い草の生えた地面に二人して転がった。
「む、無茶する……」
緊張が解けたのか、起き上がらないままブラックスミスが呟く。
しかし、ウィザードはさっさと立ち上がると低く告げた。
「逃げるぞ、走れ」
「へ?」
何から、と聞く余地もなくウィザードは走り出す。
慌てて立ち上がってカートを見ずにひっつかんだところで、足下に確かな震動を感じた。
瞬間嫌な予感が背筋を駆け上がり、なりふり構わずウィザードが走っていった方向へ走り出す。
崖から充分に離れたその時、轟音と共に地面の一部が崩れ落ちていくのを振り返ったブラックスミスは見た。
少し先では、ウィザードがこともなげに汗など拭いている。
「ち、地形が変わっちまった……」
その場にがっくりと膝をつくブラックスミスに、どこか笑みの含んだ声が追い打ちをかける。
「後悔はしないか、と聞いたはずだ」
「だからってなあ!」
勢いよく振り返り他に方法がっ、と反論しようとすると、目の前に指が一本立てられた。
その指の持ち主であるウィザードはいつの間にハンカチをしまったのか、手には何も持っていない。
「私は離せ、と言った」
「だって……離したら落ちるだろうが」
「お前の頭はザルか?」
誰がザルだ、とブラックスミスが食ってかかる前に、ウィザードは左手を強く振って見せた。
一瞬で手の中にハエの羽が現れた。
羽にこめられた魔物の力によって、使った場所から近い範囲内にランダムでワープするという緊急脱出用の道具である。
ブラックスミスが毒気を失った表情でぽかんとそれを見る。
「常にすぐ手に出来るように細工してある、と言ったことがあるだろう。尤も、使ったことはなかったが」
せっかく使えるチャンスだったのに、と割と子どもっぽくぶちぶちと言う。
ブラックスミスは呆然とした頭で考えていた。
自分が掴んでいたのは、彼の左手だ。手を振らなければ羽は出てこないのだから、使えない。
しかし手さえ離してしまえば空中でその動作をして握りつぶすだけの時間は充分にあった。
なにせ、その高さのために意地でも手を離すまいとしていたのだから。
結論。
「……この惨状やらなにやら、全部おれのせい?」
「正解」
羽をしまったウィザードがぱちぱちとおざなりな拍手を送る。
「あー……あー、わかった、おれが悪かったですゴメンナサイ……」
「本当にそう思うか?」
「ああ思うよっ! これ全部おれのせいだ!」
半ば自棄になったブラックスミスの言葉に、ウィザードは満足そうに笑んだ。
「上出来だ。なら、これもお前のせいだな?」
にこやかに指し示した先には、先程ブラックスミスが引っ張ってきたカートがある。
だが、その中央には中くらいの硬そうな岩が鎮座しており、当然ながら積んでいたポーションなどの瓶類は割れまくっている。
カートの形も不自然に歪み、それを見たブラックスミスは声にならない悲鳴を上げた。
ぱくぱくと口の開閉を繰り返すも、そこから人の言葉は出てこない。
「どうも破片が飛んできて当たったようなのだが、全部お前のせいならばこれもお前のせいだな。なに安心しろ」
ぽん、と彼の肩に手を置く。
それは慰めるというよりは、あたかも働かない部下の方を後ろから叩く上司のようであった。
「金策の狩りにぐらいつきあってやる、時給が出れば」
「…………」
もはや言葉は見つからず、これから来る苦難の日々がありありと想像できたブラックスミスはただただ涙を流すのだった。
End.
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