03 「・・・・・・最悪だ」
細く小さな粒の雨が降っている。
街灯のぼんやりとした灯りに浮かぶ糸のような白い雨粒が視界に入る。
雨の日は湿気が多く、楽器の音に影響するから好きではなかった。
まとわりつくようにじんわりと服に染み入る水分が、俺の足が動く邪魔をする。
雨が降ってるから星明かりも月明かりもなく、街灯の光だけを頼りに俺は走っていた。
薄く地面の上に張った水の幕に踏み込むたび、ばしゃばしゃと音がする。
上がってきた自分の息が耳元で聞こえるようで、非道く邪魔に感じる。
静かすぎるほどに静かな夜の港に人通りはまるでなかった。
不意に、ぞくっと、した。
尖りすぎて折れてしまいそうな、冷たい殺気が俺に向けられている。
思わず振り返って確認しそうになった時、一筋の光が雨を切って飛来した。
「うっ、あ!?」
左足が熱い、刺されたと気がついた時はすでにバランスを崩して転倒していた。
視界が反転し、体の右側を下にして倒れる形になる。ちょうど水たまりだったようで、水がはねる。
すでに雨を含んでいた服にまた水が染みこんできて気持ち悪い。
……そんな呑気なことを考えている場合ではなかった。
とにかく逃げなければと、左ふくらはぎに刺さったダガーのことをも考えずに立ち上がろうとして体の向きを変える。
無駄だった。
「どこに行くの?」
表面上はあくまでも柔らかな、それでいてどこまでも冷たい声が降ってくる。
振り向くまでもない、アサシンの声そのものだ。
なりふり構わず這って逃げようとしたが、左足に刺さっている物の柄を踏まれた。
「ぐあっ!」
刃が押し込まれる、肉を切り裂いて筋肉が破壊されていく。
「い、いた、痛いっ」
「どこへ行くの、って聞いてるんだけど」
柄にかけられたままの足がぐりぐりと動いた。
「いっ……! 止め、まじ」
痛い、どころの騒ぎじゃない。蝶痛い。冗談だ。
こんなくだらないことでも考えていないと正常な意識が保てない。
痛い、痛い、痛……く、ない。そうだ思いこめ。時に精神は肉体を超越する。
「別に……っ、散歩、だ」
息が荒いのがよくわかる。途切れ途切れで情けないが、言わなければ足を離してくれないだろう。
「こんな雨の夜に、一人で?」
がっと蹴り上げられる。
もはや声も出なかった。
「わかってるはずなのにね、逃げられないって」
ああ、わかっていたさ。でも、本能でわかっていても俺の理性が逃げられるって思ったんだ。
浅はかだったと、今ならわかる。目の前の人間は逃がしてくれるほど甘い奴じゃなかった。
殺されるかな、と頭のどこかで思う。
でも、いっそ死んでしまえばもう何も苦しくないなと痛みの中で考えた。
死んでも歌えたら、いいのに。
「さあ、帰ってお風呂にでも入ろう」
ひょいと担ぎ上げられた。
あれ、俺まだ殺してもらえないんですか。
その前に足の傷からの失血死で死ねるかな、とも思うんですが。
うっすらと目を開ければ、アサシンの背中が見えた。
ってことは今傷口は奴の目の前に、と嫌な予感がしたちょうどその瞬間。
一瞬の迷いもなく、アサシンは俺の足に刺さったダガーを引き抜いた。
「…………!!」
びくん、と抜かれたショックで体がはねる。
ずり落ちそうになったところを押さえられた。
「危ないから暴れないでねー」
のんびりとした声がかかるが、その引き金を引いたのはあんたですあんた。
せめて一声かけてください。
「早く帰ろうね」
優しく言われても、もはや俺に返事をする気力が残っているはずもなかった。
目が覚めたら、真っ昼間だった。
ベッドに寝っ転がったまま二、三度目を瞬かせていると、黒髪のアサシンが俺を覗き込む。
その時点で、昨夜というか今朝方までやられていたことを思い出してしまった。
「気分はどう?」
「……最悪だ」
寝起きの頭は上手く働かず、頭に浮かんだ言葉そのままが出てくる。
あやばいな、と思ったが意外にも殴られはしなかった。
「もうちょっと寝てなよ、風邪引くといけないから」
そう思うんだったら昨夜さっさと寝かせてくださいよ、とは言わなかった。
それは今んとこ最も深い墓穴だろう、多分。
「じゃあ、寝る」
大人しく返事をしたら、奴は嬉しそうに笑った。
そういえばもう逃げないと散々誓わされたな、と嫌なことを思い出してしまった。
軽いため息と共に目を閉じる。
せめて夢の中では幸せでありますように。
End.
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